パパ日記

プジョーと伊勢丹

~~~しかし、バブルの崩壊、リーマンショックを経て育ってきた世代の一部、もしくは20年以上のデフレは、その他多くの世代に物への執着を減少させてきているように感じます。

 

 

欧州車メーカーは、プジョーとシトロエン(仏PAS)、ルノーと日産が合併し、さらにPASはドイツの小型車で個性のあるオペルの買収に向っています。
すでにスエーデンのボルボは中国に買収され、錦織君の好きなジャガーは、ランドローバーと共にインドのタタ(コーヒー農園も所有している財閥)に買収され、英国の車は事実上ないような時代になっています。

 

 

しかし、車は資本統合の中で「モノ」としても魅力を一部失いつつあることも忘れてはなりません。
車を移動手段としてみれば安全性や燃費が重要になりますが、車を運転する楽しみから見ればデザインや運転性能の愉しみの方が重要になります。
プジョーやシトロンエンなどのフランス車の個性は、すでに15年前には失われてしまったように感じます。

 

 

以前乗っていたプジョー306のカブリオーレは、ピリンファリーナがデザインした車で、フィアットの124スパイダー、多くのフェラーリ、国産では60年代の古いブルーバード、80年代のホンダシティのカブリオーレなどがあり、それらはみな工業デザインとして優れたものだと思います。
306はカブリオーレでありながらハンドリングはきびきびし、国産車にはないスポーティーさを備えていました。現在載っているプジョー最後の日本5ナンバー枠にはいる206は、デザインや運転性能では国産車と大きな違いを見いだせません。
世田谷の狭い路地を走るには貴重だとは思いますが…。

 

 

シトロエンなどは、もはや昔の車とは別物のようで、「こだわり」がなかなか理解されない時代になってしまったように感じます。このようにいうと多くのメーカーからお叱りを受けるのかもしれませんが、とびぬけた特徴が少なくなっているようには思います。
スポーツカーは、昔乗れなかったおじさんたちが買う車になっているかのようです。
時代は「モノ」から「コト」にシフトし、「コト」には低コスト感も漂います。
大学に在籍している立場から見れば、大学生の卒業旅行もヨーロッパからアジア、日本国内にシフトしています。地方から東京の大学に通わせるには、かなりの金額がかかりますし、2人同時であれば私学の授業料のみで年間250万円程度かかります。
奨学金受給者はその返済に明け暮れるという問題もクローズアップされてきています。

 

 

 

海外からの旅行者も2400万人(2016/中国、韓国、台湾、香港で全体の73%))と増加し、画一的なパターンは減少し、外国人はどこにでも出かけていくようになっています。
興味のある体験を求める旅行者を日本中様々なところで見かけるようになりました。
また旅行目的も中国の爆買いはなくなり、銀座ラオックスの売上は激減し、百貨店の売上にも影響しています。2回目は異なる目的に変化しているのでしょう。
伊勢丹の売上減少は、婦人服の売上減少が大きく影響し、ファストファッションの売上増と反比例するかのようです。イケアやニトリの隆盛は、高級品との中間領域の商品の存在を難しくしています。私がいたアパレルの厚生年金基金は、加入者より需給者が多くなり破綻しています。

 

 

メンズは大手のレナウンがすでに中国企業傘下となり、三陽はバーバリーを失い失速し、ユニクロやしまむらで約35%のシェアを持つに至っています。アパレル売上上位10社で約70%程度のシェアと寡占化し、それはコーヒーの焙煎業と同じ構造といえます。
TPOの概念は崩れ、おしゃれをするという感覚が減少しているのかもしれません。
モノでいえばその良さを理解しえないか?それらを買う余力がないか?限られたお金の使い道が多様化しているのか?でしょう。

 

 

百貨店が廃業したり、場所貸し業に移行しつつある中、百貨店の売り場作りにこだわり、メンズ館を立ち上げ、バーゲン時期を遅らせたり、就業時間や正月の営業日数を減らすなどしてきた伊勢丹の大西社長の退任は、それだけ消費の多様化と厳しさを表す出来事のように思います。
個人的には、昨年4月からiカードが優待制度(食料品などは除外で別ポイント)からポイント制に移行したことも心理的な影響が大きかったのではないかとも感じます。
基本5%割引で、年間50万以上の買い物で次年度8%、100万以上の買い物で10%その場で優待でした。
伊勢丹催事の販売手伝いの際は、メンズ館のマーガレットハウエルでジャケットやシャツを買い其れを着つつ販売していました。

 

 

銀座に東急プラザができ、ロッテ免税店は静かのようですし、(ソウルの免税店も同じです)銀座松坂屋跡地に4月開業予定の「ギンザシックス」は、巨大で周りを圧倒しそびえ立ちますが、どうなるのでしょう。
10年間行った開業セミナーでは、「消費の拡大が無い中では、どこかが売り上げを伸ばせばどこかが減るのは当たり前」と話してきましたが、今もそれが繰り返されている訳です。
新たにオフィスビルができれば、新たな需要の多くは他からの移転であり空きができ、賃貸アパートも同じように需要の拡大がない中家賃は下がります。
レオパレスの家賃一括保証は維持できなくなります。

 

 

食も最高級からファーストフードまでその価格差は拡大しています。
同時に食への関心の低下を感じざるを得ません。
食べることに関心が無ければ、もはやあきらめるしかないのですが、最近は食べることに関心がありながらもおいしさを理解できない層が増加しているのではないかと危惧しています。

 

 

食は3代といわれ、祖父母の代から受け継がれるもので、自分自身だけでは身に着けることのできないもので、それゆえに素養であり、教養だと思います。
辻芳樹さんの受けた英才教育はやや特別ですが。
「おだしの薄い味を小さなときに体験して味わっていないと大人になってからその味を理解できなくなる」というのは知人の京料理の後藤先生のいつものことばです。

 

 

東京より田舎出身者(海が近い方よい)の方が素材の味をわかり優秀なシェフが生まれる可能性があるのではないかというのが持論です。
しかし、家庭での日本食文化は崩壊過程にあり、すでに30年前には森田芳光監督が「家族ゲーム」で横並びの食事シーンをといり、さらにその後、忙しく家族が食事を一緒にしない食生活も広まり、外食よりも中食が広がっています。
土井義晴さんは一汁一菜でいいから作りなさいと唱えています。
米と、みそ汁とおかず、そのあとの煎茶などという文化もなくなりつつあります。そもそも急須が家庭になくなり、ペットボトルに代わってきています。ネスレのアンバサダーには、煎茶などのカプセルさえあります。
ついでに言えば、ご飯の食べ方も、ご飯とおかずを交互に食べず、残った米だけを食べるような食事風景さえ見かけるようになりました。

 

 

 

このような時代の中で、モノの価値判断基準としての品質、おいしさとしての味がわからなくなりつつある時代に直面しつつあるのではないかというのが今日のテーマです。

 

 

ファストファッションの品質が良くなった、コンビニのコーヒーがおいしい、FFのコーヒーがおいしくなったとささやかれるのは、幅広い消費者に受け入れられているということも意味しますので、それはそれなりの意味はあります。それらの比率が大きくなりすぎてしまうのは健全な状態ではないと考えます。

 

 

アラビカ種に対しロブスタ種の生産比率は、私がこの仕事を始めた1990年の30%から増加し、今は40%を超えつつあります。ベトナムを中心にブラジル(アラビカの方が多いが)、インドネシア、西アフリカ諸国などで生産される収穫性の高いコーヒーです。
酸味がなく、苦く重い濁り感のあるコーヒーで価格は安く、インスタントや缶コーヒー、安いレギュラーコーヒーとして使用されています。
コーヒー生産量が需要に追いつかなくなるような時代に直面し、ロブスタの生産も重要ですが、それらが増え過ぎると、アラビカの価格に影響を与え、流通するコーヒーの香味に影響を与えます。コーヒー産業の維持という観点から見れば、ロブスタ、アラビカコマーシャルの輸出規格の上位、下位等級のもの、そしてスペシャルティとハイエンドのスペシャルティなどの多様な商品群の品質が明確になり、ワインのように適切な価格で市場で共存していくことが望まれます。

 

 

「価格の割にはほどほどの味でおいしい」、「もっとひどいコーヒーが多いのでおいしい」「嗜好品としてこれで十分、これ以上のものは求める必要が無い」ということであればよいのですが、「ほどほど以上の香味を理解できない」という消費者が拡大するとちょっと問題になります。

 

 

これまでは、よいものに接し、さらによさを理解できるようになる体験を当たり前と考えていましたが、現在はこのような段階を経てよいものやよい味にたどり着くということが少なくなってきたかのではないかと感じるようになりました。

そもそも良いものを求める余裕がなくなっている側面もあるでしょうが、そもそも良いものが何か?わからない人が増えているのだとすると厄介な時代になったといえるかもしれません。

 

 

今朝の朝日新聞に、プジョーと伊勢丹の記事がありましたので、最近感じていることを一気に書いてしまいましたので、脈絡のなさはご容赦ください。

 

 

生意気といわれそうなのでこの辺でやめておきます。