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コーヒー セミナー
1990年代から2000年代の前半の生豆問屋は、大手商社から生豆を購入し、中小ロースターや一部の自家焙煎店に販売していましたので、自社輸入するという考えをほとんど持っていませんでした。(大手商社=三井物産 丸紅、伊藤忠など)
そこで、「生豆問屋に全量責任をもって購入するので共に産地開拓をしよう」という提案をしたり、
当時は単一農園という生産履歴の概念がなかったため「単一農園の豆を探して」と依頼したりと、
積極的なアプローチをしていきました。
1999年、開業して10年近くたち、狛江に2店舗目を出店し、生豆の使用量も増えていましたので、
自分でリスクを負って、責任をもって購入すればよいと覚悟を決めました。
2001年には、SCAAのマイアミ大会に参加しましたが、生産国の出展が多くみられ、米国のコーヒームーブメント(まだSPの定義はありませんでしたので、グルメコーヒーとか、プレミアムコーヒーとかいういい方が主流でした)に衝撃を受けました。
もはや、じっとしてはいられない。と
2001年に初めてパプアニューギニア(PNG)の「シグリ農園」に出向きました。
初めての訪問は、栽培環境、樹、精製、乾燥に触れることができ、もはや自分の目で品質を確認すべきとの思いを強くしました。
その後、農園訪問を繰り返し、自分で生豆の選択することにこだわり、
収穫後、速やかに輸入し、生豆の鮮度ということにこだわりました。
しかし、農園との取引は、簡単ではなく、長期で使用するから売ってほしいというところからのスタートでした。
取引は、パートナーシップという概念に基づき、お互いに信頼関係を構築し、取引を継続することを基本としました。
この当時、「コーヒーは生鮮品です」とか、「旬のコーヒー」という売り方もしました。
2003年には日本スペシャルティコーヒー協会(SCAJ)が設立され、
このころ、SCAAにより「生豆のグレーディング」が開発され、
2004年頃からその運用がみられ、スペシャルティコーヒーの概念が徐々に明確になっていきます。
コーヒーのおいしさを、原材料である生豆の品質に見ようとするSCAA方式は、画期的なもので、
生豆の物理的評価(外観、欠点数など)とカッピング(官能評価)の両面から成り立ちます。
①欠点数が少なく、②カッピングスコアが80点以上をSPとする方式は、現在世界中に広まっています。
SCAAは、生産国及び消費国で、SCAAカッピングジャッジの養成に入り、
私も、2005年には、SCAAのカッピングジャッジ(現在のQグレーダー)の資格を取りましたが、
更新していませんので現在は資格を喪失しています。
カッピングという言葉が、このころから日本でも使用され始めました。
SP市場は小さなものでしたが、拡大が予測され、2005年頃から日本でも徐々に生豆の品質に目が向き始め、
2000年代後半になり、一部の生豆問屋は、直接SPの生豆を生産地の輸出会社経由で輸入し始めていきます。
私の生豆の購入のし方も変わっていきました。取引を開始した農園のタイプサンプル、プレシップサンプルをチェックしながらも、常に新たな産地の生豆サンプルをカッピングして購入するようになりました。
しかし、品質が安定したパートナー農園もあれば、その年により品質にブレの生じる取引農園もあり
、2000年代前半はよい生豆を求め、紆余曲折の多かった時期です。
グァテマラ、ケニア、タンザニア、コロンビア、ブラジルなどの農園豆などの安定確保をめざし、さまざまな農園の豆をカッピングし、購入してきました。
エルサルバドルのパカマラ種、パナマのゲイシャ種など新しい品種も誕生した時期で、
エチオピアのイルガチェフェのG-2(まだG-1はない時代) も確保していきました。
2005年以降は、生産者や輸出会社や輸入会社との信頼関係を築き、徐々に安定した品質の生豆を調達する基礎を構築した時期とも言えます。
LCF(私が開業支援した自家焙煎店)のメンバーも増え、バイヤーとしての購買力をつけ、SCAAで85点以上の風味の豆を求めつつ、購入量も徐々に拡大していった時期です。
主体的に、自分の判断で生豆を購入するため、失敗が許されないというプレッシャーの中でカッピングスキルは向上したと思います。
経験を積み重ねるにつれ、SPは、産地、品種、精製、乾燥、流通による風味差があることが理解できるようになり、
常に、より良い生豆を探すと同時に、よい生豆をどうすれば作れるか?どう品質を維持するか?について考えながら生豆の調達をしてきました。
「コーヒーは農業と科学」と認識し、2002年に堀口珈琲研究所を作り、コーヒーの栽培と精製の研究を考えましたが、2000年代は、セミナーと海外出張と、自家焙煎店の開業支援で忙しく、何もできず、その活動は大学院卒業後に持ち越されました。
このくらいで 大雑把ですが 前振りは終了し、本題にはいります。