新日本プロレスに対する不正アクセスでクレジットカード情報漏洩が7月に発覚しています。
当方は動画配信サービスに加入していましたのでその漏洩対象となり、その後しばらくしてから文書で詫び状が500円分のカードとともに送られてきました。
そして昨日クレジットカード会社からカードの切り替えの電話があり、カードを再発行することになりました。
動画の配信サービスはWWE(米国のプロレス団体)が昨年最初に行いましたが、過去の試合も見れる為ファンにとってはなかなかのサービスです。
つまりは、いつでもどこでも再生可能な今の時代には、古い画像データは貴重な資源でもある訳です。
この種のDVDは余り販売されていませんので、音楽などに比べ有用性があります。
書籍も電子化し、書店や取次店の倒産は増え、音楽もネット配信の方向に流れCDの売上は落ちています。時代の転換点というか境目なのでしょう。
私などは、本は買うもので本棚が必要と考えますし、CDも必要なものでCDラックが必要と考えます。
手元にものがないという環境に適応できないということなのでしょうか?
男の中には、もともとものを集めるという習性のあるコレクターもいる訳です。
最近は「人生がときめく片づけの魔法」とか「フランス人は服を10着しか持たない」とかいう本が売れますが、10年に1どしか着ない服とか、もはや聞くことがないかもしれないCD等に愛着を持ってしまうのは物を思うように買えなかったり、ものがなかった時代に育った者の習性なのかもしれません。
先般の東チモール出張では、20年前にハワイで購入したインドネシアの綿のシャツを10年ぶりに何着か着ましたし、30年以上前に録音したモダンジャズのカセットテープも多くの本もビンテージのコーヒーカップも捨てられません。
見方によればごみでしょうね。
しかし、自分自身を形成してきた嗜好や哲学はそれらの中にあるともいえます。
別の観点から言えば、ものに対するこだわりそのものは、コーヒーという味へのこだわりと底通しているのだともいえるかもしれません。