パパ日記

日本のフレンチ創生期 最終

3群は、新たに街場のフレンチを築いていった、新しい世代のオーナーシェフたちです。
ここから日本のフレンチは大きく花開いてゆきます。
その第一世代はみな団塊世代前後ですので70歳に近づいています。
現役でいまなお活躍しているシェフは少なくなりました。

 

 

 

銀座「レカン」のシェフから、1984に京橋「シェ・イノ」を開業した井上さんは、1945年生まれですので、もう調理場にはいないでしょう。厨房の中で若いスタッフたちには、声もかけられないくらいの雲の上の存在で、その緊張感が異常とも思える雰囲気を感じたことがあります。
その料理は様々な店で受け継がれています。
代々木上原の「ラ・ファソン古賀」の古賀さんは「シェ・イノ」の初期に在籍していましたので、しっかりした味のフレンチを楽しめます。カウンターで堀口のコーヒーを飲みながら当時の話でも聞くのもよいでしょう。

 
1952年生まれ平松さんの「ひらまつ亭」は1982年開業で、1991年には広尾に巴里そのもののような「カフェ・デ・プレ」をつくっています。当時それは余りに画期的でした。
その後レストランウエディングのさきがけ、パリ進出、多店舗展開し、高級レストランから年商110億の上場企業にまで成長していますが、昨年会長に退いています。
個人的には、初期の「レストランひらまつ」時代が懐かしいですね。
ただ、時期堀口のコーヒーサンプルには関心がないようでした。
最近は、新国立美術館内に行った際に(大体は一人ですが)ひらまつ経営の「ポール・ボキューズ」で食べるくらいです。

 

 

1948生まれの石鍋さんは、フランスから帰国後六本木の伝説の店「ビストロ・ロデュース」で料理長を経て1982年に「クイーンアリス」を開業しています。当時の「ロデュース」は、フランス料理の先端を行くような店だったと思います。
当時私より若い客はいなかったでしょうから、当時の店を覚えている人も多くはないでしょう。

「クイーンアリス」は、1980年代に一世風靡し、多店舗展開し、1990大はTV「料理の鉄人」でさらに著名になりましたが、多くは閉店し、今は横浜ベイホテル東急内にプロデュースした店が有名です。
だだし、内装は、フレンとは思えないような独特の雰囲気で微妙です。
石鍋さんは、最近はどうしているのでしょう?

 

 

 

「オテルド・ミクニ」の三国さんはフランスから帰国後、四谷で華々しいというか、料理の斬新さで衝撃的なデビューをしました。予約がとれなかった時期です。
開店から30年たち、店も増え今では大御所です。
2年前に久しぶりに本店に沖縄「山田珈琲」の山田君と再訪した際、複雑な印象を受けました。

自宅にあるワインと飲み比べるためにグロフィエの2008年を開けました。
この年のブルゴーニュは酸が強く、中野の「MUTO COFFEE」開店前に、武藤さんが持参してくれたDRCを銀座のワインバーであけた2008も、某氏と新宿のワインバーであけたルーミエの2008のルージュもそうでした。もう少し置いた方がいいのかな….?よいワインは林業のようなもので、長期のスパンでとらえなければなりませんので、そこが厄介なところです。
三国さんとは、個人的接点はなかったのですが、支店のシェフたちの中には堀口珈琲を使いたい方もいましたが、三國さんはあまりコーヒーには関心はなかったように記憶しています。
しかし、長く食育をやられているところは尊敬します。

 

 

 

最後に、1950年生まれの三田の「コートドール」の斉須さんに触れなければなりません。
フランスでの活躍は有名で、日本のどこに店を出すのか注目されていました。

食べに行くには不便な三田のマンションの1階に開店した時は驚きでした。
斉須さんは、多くのシェフが多店舗展開する中で、三田の店のみをかたくなに守る一途で真摯な方です。20年以上前、海のものとも山のものともつかない私を信頼して店のコーヒーを任せてくれました。
時代に流されず同じ開店時のメニューを今も食べることができます。普通は飽きられてしまうのですが、圧倒的な料理の力強さは時空を超えるかのようです。
新しい料理も生みだし、現在のヌーベルなフレンチとは異なります。

 
この店の厨房は、手入れが見事に行き届き、ランチ、ディナーの後に調理の影を見いだせないくらいピカピカに磨きます。こうしてスタッフは料理に向き合う姿勢を鍛えられていくのでしょう。
何度も厨房を拝見しましたが見事でした。
厨房の見えるレストランを初め、衝撃を与えたのは神宮前のイタリアンですが、話がそれますのでいずれ。

 

 

「コート・ドール」は、店の雰囲気、料理の質と量、サービスをトータルに考えると他のグランメゾンに比べかなり価格は安いと感じます。例えば、牛尾の赤ワイン煮込みは、一人前に赤ワインを1本使用しますので、一皿の値段としては良心的です。
ゆるぎない精神が生み出す孤高の料理とでもいえばよいのでしょうか。
ぶれないですね。
この店の出身者は多くいます。
まだ、多くの団塊の世代のシェフがまだ活躍していますので、近況を知りたいですね。
料理場から出てしまう前に訪問してみたいものです。
ケーキ業界も同じように、団塊の世代は、堀口珈琲世田谷店前の大山さんや弓田さんなど多くいます。

 

青山の「ジョエル」(閉店)を書き忘れていました。
堀口珈琲を理解してくれた初めてのフランス人でした。
スタンダードなリヨン料理をベースに初期の日本のフレンチを牽引したと思います。
ポール・ボキューズと関係のあった「レンガ屋」開店時に来日しています。
ヒルサイドテラスにあった「レンガ屋」はもはや伝説のフレンチとなってしまいました。

 

「ポール・ボキューズ」は、リヨンの三ツ星レストランで、ジョエル・ブリュアンは、そのスーシェフとして活躍していたようです。1980年に青山に「ジョエル」(現在のスパイラルビルの横のビルの2階)を開店し、その後代官山の「アントニオ」のピエトロさんなどとの関係でコーヒーを使ってもらいました。
日本語も上手になり、いろいろわがままで、様々なコーヒーを提供した記憶があります。

 

 

スズキのパイ包焼きなどの伝統的料理を食べた記憶があります。
スズキはよくつかわれる素材で、六本木・飯倉片町の「レストラン・プロヴァンス」(閉店)で大きなスズキのレモンクリームソースを食べた記憶もあります。日本のフレンチの創生期ですね。

その後、ヌーベル・キュイジーヌブームやその後の日本人の多くの店が開店し、ジョエルのスタンダードな料理は時代とともに受け入れられなくなっていったと思います。
もはや、「ジョエル」や「プロヴァンス」で食べた料理は、日本で食べることは出来ないでしょう。
尚、「ポール・ボキューズ」は、ひらまつさんが日本で展開しています。
今はなき伝説の店も多くありますがくどくなりますので、一旦フレンチは終わります。