パパ日記

東チモール・山編

当社にも、山に行ったり、ランニングしたりするスタッフが増えているようです。

当方の若き時代(20代の頃)はまだジョギングなどという言葉はなく、走ることの有効性を理論的に話せる体育関係者はあまりいなかったように思います。
40年前に、体力とは持久力と瞬発力で、なかでも持久力は重要でそのためには20分以上走るのがよいと教わったことを覚えています。当時としては画期的な考え方でした。
最新理論はわかりませんが、走ることと泳ぐことを基礎にして体力を維持していました。

当時山にもよく行っていましたので、よく走ってトレーニングをしていました。

当時の会社は週休2日ではなく、土曜も営業していました。午前中のみ営業する会社もあり、それが次第に月1回土曜休み、隔週土曜休みと変化していった時代です。

ですから私の若い時代は夜行日帰りという強行軍が普通でした。
新宿発23時55分発の中央線で小淵沢まで行き、明け方接続されたバスで目指す山のふもとに行ったものです。昼前には山頂に着き、インスタントラーメンなどを食べ(残念ですがこの当時はまだコーヒーを持っていくような時代ではありませんでした)午後には下山して帰るパターンが多かったように記憶しています。

ほぼ徹夜に近い状態でしたので、よくやっていたなと思い起こします。
きついときは「もう行かない」と心に誓うのですが、また行ってしまうところが山の魅力でしょうか?

この当時は平行して、一人でバックパッキングもやっていました。
日本地図を見てどこか半島の先端に印をつけ、どうやって列車とバスを乗り継ぎ、最後は歩いてたどり着けるか計画を練り活動していました。
もちろん食料、テント、寝袋をしょってということになります。
今は、車で近くまで行けてしまい、キャンプ場もあり、お膳立てができすぎて面白みがないといえるかもしれません。しかし、今となっては絶対にやりたくないですね。確実にいいホテルに泊まるほうを選択します。

今思えば、アウトドアー派だったのでしょう。

東チモールのレテホフォ村は、日本で昔登った山を思い起こさせてくれます。
標高1500~1600mの尾根沿いに民家があり、小高いところに教会が建っています。
ポルトガルの植民地であったため、村民の多くはクリスチャンです。
1976年にインドネシア軍が西チモールから侵攻し、併合し、内戦状態から2002年に独立します。
戦禍で主な輸出産品であったコーヒー栽培も荒れ、2003年日本のNGOであるPWJ(ピースウインズジャパン)スタッフとともに現地調査に出かけました。
当時は、樹の手入れはされず、農民は実がなれば積み、ブローカーに売っていました。

しかし、長い内戦状態のため品種改良などはされず、古い樹が残っていましたので、かかわることを決断し、PWJのフェアトレードコーヒーの栽培、精製などのアドバイザーとして少しばかり活動しました。

東チモールの山の尾根は、何とか車の走行が可能です。
車がだめなところはバイクになり、それでもいけない場所は徒歩となります。
農家(特に何もしていない)の山での生活は、自給自足で、電気はなく、川に水を汲みに行くだけでも重労働です。食事はキャッサバやサツマイモなどの芋類です。
現金はコーヒーのチェリーを売り手に入れましたが、生活は楽ではなく、当時コメなどは国連などから支援されていました。

それでも週1回の市には多くの野菜や果物が並びにぎやかになります。
村民は2~3時間かけて農作物を運んできます。
私も、昔だったら苦もなく歩けたでしょうが…..今はもうきついですね。

当時PWJの宿舎も夜中は真っ暗となり、、昔バックパッカーとしてテントを張った山の中と同じ闇を体験しました。
施設の夜中は、懐中電灯がないと一歩も歩くことができません。

対して東京では、外灯などで明るすぎて雨戸やカーテンで遮光しないと寝ることもできません。節電した東京の地下鉄や駅などの明かりは、今ヨーロッパと同じくらいの明るさです。東京人は異常に明るい環境に住みすぎていたのだと思います。

さて、東チモールを使用して9年になりますが、この産地とのかかわりは、コーヒーが極めて難しい農作物であることを教えてくれます。
(海とエステ編に続く)

*東チモールについては昔のブログを読んでいただければいいのですが、過去10年の間にHPは改定され続けましたので今は読める状態にはありません。
但し、「コーヒーのテースティング」(旭屋出版)には詳しく書かれています。