パパ日記

ブラックバーン-2

米国の高品質珈琲は、バークレーのピーツコーヒーからスターバックスに受け継がれて行きます。1990年代にはピーツの「品質のよい豆を職人の焙煎で新鮮なものを供給する」という考えを基本とし、スターバックスの台頭とともにセカンドウエーブといういい方もされます。

 

 
しかし、2000年に入ると堀口珈琲のような世界のごく一部のロースターがトレサビリティの明確な生豆を求め初めます。2001年前後のコーヒーの危機(相場の大暴落)はフェアトレードなどの運動を生み出します。これらはサスティナビリティという概念とともにスペシャルティコーヒーという新しい価値観となって世界の生産国及び消費国にコーヒー革命的な変革を起こしていきます。

 

 

 

この2000年以降の新しい波に対し、米国でサードウエーブという言葉も使用されるようになりました。
しかし、2000年の前半はまだ輸出会社及び生産者はシングルオリジンという概念を十分には理解していませんでした。この時期は、世界の優れた生豆の多くをスターバックが購入していました。このことは今の若いコーヒー関係者はわからないでしょうが、グァテマ・アンティグア、コスタリカ・タラス、コロンビア・ナリーニョ、タンザニ、ケニアなどの優良産地に早くから入り込み、カフェプラクティスの認証も広げていました。

 

 
サードウエーブといわれるインテリジェンシアやスタンプタウンが知名度を上げていくのは2005年前後からであったと思います。
そのような中、堀口珈琲は2001年からシングルオリジンの生豆の獲得をめざしていました。当時日本のトレーダーには、シングルオリジンのような考え方は浸透していませんでしたので、堀口珈琲は0からスペシャルティコーヒー開拓の道を歩み始めました。

 

 

 

しかし、当時は購買量がないためビーンズショップの開業支援をしLCFというグループを形成しつつ、グループとしての購買力をつけていきました。

 

 
当時タンザニアは、モンデュール農園がシングルオリジンで流通していましたが、これは極めて例外的で、輸出会社のブランドである「アデラ」「スノートップ」などがプレミアムコーヒーとして高級品でした。
この「アデラ」はいくつかの農園の豆を混ぜた輸出会社のブランドでしたので、農園毎のサンプルをもらうことからスタートし、見つけたのが「ブラックバーン」です。
AAに限定し、02-03を少量、04-05には250袋と購入量を増やしていきました。当時このような継続的な購入のし方は世界でも珍しかったと記憶しています。

 

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ブラックバーン農園のオーナーであるゲルケンさんから送られてきたイラスト

 

 

「ブラックバーン」の一部はスターバックスが使用していましたが、その後は堀口珈琲が主要な購入者となりました。その後農園主であるゲルケンさんとは10年以上の付き合いとなり、その間紆余曲折がありつつ今日に至っています。

 
今朝のコーヒー
タンザニア ブラックバーン農園 シティ フレンチ
タンザニア最高峰レベルの農園だと思います。気象条件が厳しいため昨年は不作でしたが、今年は豊作となり多くを購入しました。
ケニアのような個性的な特徴はありませんが、バランスのとれた香味とでもいえばいいでしょうか。シティは軽やかな酸、フレンチはかすかにミルキーな印象。

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しばらく飲み続けてみます。